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「悠久の詩壇」の遊び方らしきなにか

2013年01月28日 22:39

去年の秋から始まったUst番組「悠久の詩壇」で遊ぶようになって三ヶ月ほど。

詩を作ることに慣れてなくて、でも大喜利やるのと違う運動になっていいかなーという程度で始めたのがどっぷりと。

この前も公開放送でべろんべろんになりながら楽しんできたばかりというところ。

そんな中でちょっとずつ掴みかけていることをメモ代わりに残してみようかなと。



形式としては、ひとつの写真を題材に最後の一行を出演者でつくり、そこにつながるように詩を作っていく、といった感じ。

一行毎に作品を出していって、その中で一つ決めたり、出演者のフィーリングでくっつけたり離したり、みたいな感じ。



行の重ねかたっていろいろあるなーと思い始めてて。

絵を描くみたいに一行毎に描写を足していったり、物語を紡ぐみたいに流れを一行一行追ってみたり。

音だけにしてみたり、色だけにしてみたり。

優しく話しかけてみたり、思い切り突っぱねてみたり。

思ってることを言ってみたり、思ってないことを言ってみたり。

内面に迫ってみたり、外面だけを追ってみたり。

好きなのに嫌いだと言ったり、嫌いなのに好きだと言ったり。

淡々と重ねて行ったり、ノリと勢いまかせなだけだったり。



こうなった方が面白いかなーと思いながらも、そう都合のいいフレーズが出てくるとも限らないわけで。

その出ない加減にうんぬんしながらもえいやっと放り投げるかのように投稿してるようなもので。

私は他の方みたいなポエミーなフレーズを知らないもので、詩としては異端なものばかり放っている気がするけれど、

それはそれで面白いかなと思ったり思わなかったりで。



そ〜いうのがお好きな方は一度覗いてみたらいかがでしょうか。やってみると案外と楽しいものですよっと。

↓のサイトでアーカイブを観ることができます。

http://s2tream.tv/category/program/yukyu_shidan
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なやむことのてんさい

2012年01月19日 14:44

人間が思っているように動いてくれない人間。


思いのままになるのってなんだろう、そもそも、自分自身も思いのままにできているのかな…


完璧に自分をコントロールできる、というのもまた、なんか切ないような…


なんでも思い通りにいったら悩まなくなるのだろうか、


むしろ、なんで思い通りにいくんだろう?という方向に悩んじゃうのだろうか…


悩まない人は、うまくいかなくても悩まない、


悩む人はうまくいっても悩む、そういうものかもしれない。

本物であるかどうかは、案外どうでもいいのかもしれない

2011年12月12日 09:50

実物を知らないが故に描けることもあると思う、むしろ、実物を知ってしまったが故に描けなくなることも。


読む側からしたら、それがリアルかどうかはどうでもいいのかもしれない。
目にしたものに素晴らしい何かを感じたのであれば、それが本物かどうかは案外どうでもいいのかもしれない。
本物という唯一を知ってしまった瞬間から、見る事すらかなわなくなるわけで。


「22世紀の地球」という絵に「それ本当に22世紀なの?」と問いかけるのってどうなんだろ?みたいな事であり、
…でも、こそこそビニ本をみようとしてる時というのは「本物を知りたい」って動機が強いわけで、そういう時は例え愚劣であっても本物を知るほうがいいのかもしれず、
…でも、本物を知りたいって動機が「何か素晴らしい桃源郷がある」みたいなもので出来ているのであれば、本物を知る=失望となる可能性もあり、
…それはそれでいいんだろうけど。


居心地のいいの中で一生を過ごすか、から醒めて一歩踏み込むか。
前者も案外捨てたものじゃない、と思う私は閉じこもり志向なんだろなと(;´∀`)

他人が作った世界にすがりつくだけの信者

2011年03月28日 00:13

自力で一から世界を構築する事を放棄したり、誰かが作った世界をそのままインストールして疑いもせずほっておいたり…そういう人たちの目って、にわか信者みたいな感じがする。

インストールした「誰かが作った世界」を構成するプログラムを解析したりいじる事で不具合を直したり…そうすることで徐々に自分のモノにしていく感覚ってあると思う。自分の働きかけに世界がどう応えるか。

自分の働きかけに「道具」がどう応えるか…車の運転を覚えるときの感覚。これくらいの力でブレーキかければこれくらい止まるとか、道具との対話を通じて覚えていく感じ…自分の手にしていく感じ。誰かが作った世界を少しずつ自分の言葉で書き換えていく感じ。

そのほとんどを自分の言葉で書き換えたとき、誰かからもらった世界を自力で作り出せるだけの力がついている…はず。まぁ、いろんな事が細分化されてマニアックな方向に突き進んでいる現代において、その全てを細分まで書き換えるにもはんぱない時間を要するだろうけど。

全てとはいわずとも、自分がその道具と接する中で最低限使う部分、接さざるを得ない部分についてモノにできていれば十分だろうけど。ちゃんと要求に応えてくれるなら、中身が鉄でもヘチマでも構わないわけで。

自分が普段接している道具がどういう理屈で動いていて、どこから動力を得ていて…みたいな事を知っておくと、道具が不具合を起こしたときにどうすれば直るかの道筋がイメージできるようになる。

うん、すごく当たり前な事を書いた。



こんな感じのツイートを今朝書いて、今さらながら浮かんだのが「守破離」だったりする。
またしても綺麗事言ったというか、自分の血肉にする前に放射能漬けにされたらたまらんというか…パニくると藁をもすがっちゃうのはしょうがないんですけどね。でも、毎度毎度藁にすがってしのぐだけだと永遠に前へ進めない気がするもので。
前へ進むには、自ら切り込んでいくしかない。

やり方を覚えるときの感覚

2011年01月21日 09:56

車の運転を覚えたり、笛の吹き方を覚えたり、プログラムの書き方を覚えたり…

そーいうのって、道具を自分の体に少しずつ取り込んでいく感覚がある、私の場合。

こーやりたい時はこー使う、

あーやりたい時はあー使う…

そうやって道具を自分の手やら足やらにしていく、

その一方で道具を使うことにより自分の表現の幅も広がる感じ。


高度な技術をわざわざ言語化しなくても、当人が技術を使う分には困らない。

体が覚えたとおりにやればいいだけ。

その技術を誰かに渡したい時、共有したい時になってはじめて言語化する必要が出てくる。

自分の中で作り上げた道具を他人が受け取れる形に現す必要が出てくる。


「右手をこう動かして、一方左手はこのタイミングでこう動かし…」と書いてある通りに体を動かすのは、

技術の肌をなでるだけに過ぎなくて。

その技術の肝をつかむには、肌をいろんなやり方でなでながら探るか、師匠からさらなるヒントを引き出すか…。


そのつもりでやってても、自分が道具に取り込まれては、元も子もないですけど(;´∀`)


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