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せかい

2010年01月21日 19:06

私の中の「世界」という言葉の定義のひとつに、「自分の肉体から外側にあるものすべて」というのがありまして。



外側で飛び交っている多種多様な波やら物体やらの存在を、自分の肉体(目や鼻や耳、口や皮膚)から受信して、それを基に「世界」を認識する。

カメラは目を、マイクは耳を、自分の手の届かないところにまで広げていった。これらの存在がなかったら、生まれて一度も行ったことのないハイチという国での地震を認識する事はなかっただろう。

逆をいえば、もしカメラマイク存在を知らなかったとしたら、その人にとっての世界は「自分の手の届くところすべて」ってことになるんだろう。



世界」を認識するという事は、同時に「世界」をあたまのなかで構築する事でもあると思う。

日々刻々の状態を受信し、それらの情報を並べる事で過去からの変化を認識する。

ちょっと前まで野党だったのが、今では与党に変化している。

ちょっと前まで社会主義だったのが、今では民主主義に変化している。

ちょっと前までJ1だったのが、今ではJ2に変化している。

それらの変化を認識するたび、「世界」はあたまのなかで再構築される。



私の体は「世界」とやりとりする事で生命活動を維持している。

もし「世界」が変化したことで、今までのやりかたでは生命活動を維持する事ができなくなったとしたら、

その変化した「世界」でのやりかたを模索する事になるんだろう、その「世界」でも生きていたいと思った場合は。



今はそんな事なんて思いもしないのですが、もし「この世界を守りたい」なんて言葉を口走ったとしたら、

ここでいう「世界」が「地球上にあるものすべて」ってことになるのか、「自分の手に届くものすべて」ってことになるのか…

守りたいと思う存在が自分の手の届くところにあるとするなら、間違いなく後者なんでしょうけど。
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